東京地方裁判所 平成2年(ワ)4021号 判決 1991年9月26日
原告 甲野太郎
右訴訟代理人弁護士 中村治郎
被告 乙山花子(登記簿上の氏名 乙田花子)
右訴訟代理人弁護士 副島洋明
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、別紙物件目録(二)記載の土地共有持分につき、平成元年七月二八日売買を原因とする所有権移転登記手続をせよ。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 別紙物件目録(二)記載の土地の共有持分(以下「被告持分権」という)は、被告が所有していたものであるが、平成元年七月二八日、原告は、被告から金一〇〇〇万円でこれを買い受け、同日、被告に対し右代金を支払った。
2 よって、原告は、被告に対し、被告持分権について、右売買を原因とする所有権移転登記手続をすることを求める。
二 請求原因に対する認否
全部認める。
三 抗弁
1 詐欺に基づく取消
(一) 別紙物件目録(一)記載の土地(以下「本件土地」という)価格は、およそ坪当たり一〇〇〇万円相当であり、面積は約四〇坪、内一七坪には第三者の借地権があるので、全体の価格は約二億八〇〇〇万円となり、被告持分権の価格は約九〇〇〇万円である。それにもかかわらず、原告及びその代理人である丙川春夫(以下「丙川」という)は、被告持分権を著しく安い価格で騙取しようと企て、被告及びその夫である乙山松夫(以下「乙山」という)が精神分裂病のため、その法律的取引能力に欠けていることにつけ込み、「本件土地は他人に売れない土地だ」、「(被告持分権価格は)は七〇〇万から一〇〇〇万円の間だ」などの虚言を弄して、被告持分権があたかも金一〇〇〇万相当しかないものと被告を欺き、その旨誤信させ、本件売買契約を成立させた。
(二) 被告は、原告に対し、平成元年一二月一五日、内容証明郵便で右契約における譲り渡しの意思表示を取り消す旨の意思表示をなし、そのころ、原告に到達した。
2 強迫に基づく取消
(一) 被告は、その姉である戊田春子(以下「戊田」という)に黙って契約をするのはまずいと思い、平成元年七月二七日、原告宅に本件売買契約の締結を断りに行ったところ、丙川から「貴様ら」、「姉となんかに電話して張り合って勝てると思っているのか」と大声で怒鳴られ、更に、いまにも暴力を振るわれるかの如き威勢を示され、丙川の言うとおり契約しないとどのようにされるかわからず、畏怖して、翌日本件売買契約を締結した。
(二) 抗弁1(一)のとおり。
3 公序良俗違反に基づく無効
本件売買契約は、被告が精神分裂病のため、境界段階の知能で人格的にも未熟であり、その社会的適応能力を著しく欠いていることに原告らが乗じて締結したものであり、売買代金は、近年の内に予想される道路用地買収の補償金に比べて著しく低いもので、取引価格の少なくとも五分の一以下であり、また、原告代理人である丙川は、本件売買契約締結に際し、前記2記載のとおり社会的に非常識な手段をとって被告に売却することを承諾させていること等の諸事情を考慮すれば、本件売買契約は公序良俗に違反し無効であると言うべきである。
四 抗弁に対する認否
全部否認する。
第三証拠《省略》
理由
一 請求原因について
請求原因事実は、すべて当事者間に争いがない。
二 抗弁1(詐欺)について
1 《証拠省略》によれば、被告は、前夫の亡くなった昭和四一年ころ精神分裂病を発病し、昭和四七年七月から昭和五三年四月までの間及び同年七月から同年一一月までの間の二回入院してその治療を受けたこと、昭和五三年三月ころ、入院中に知り合った現在の夫である乙山と同棲するようになり、右退院後の昭和五三年一一月以降現在まで、通院治療を受け、毎日服薬していること、以上の治療によって精神分裂病の症状は軽快し、現在は意思・感情の障害に強迫症状と心気症とが伴った中程度の慢性欠陥状態にあること、知的能力は低く、正常と精神薄弱との境界程度であること、退院後は被告単独での社会適応は不可能であるが、乙山の支えと地域保健所等の援助によって社会生活が可能であったこと、就労経験は全くなく、現在も無職であること、昭和六三年六月二〇日、乙山と正式に婚姻したこと、乙山との生活は現在生活保護によって賄われていること、また、乙山も精神分裂病で昭和四七年八月から昭和五二年一二月までの間に数か月の入院を五回繰り返し、その後現在に至るまで通院治療を受けて、毎日服薬していること、知的能力はやや低く、正常と精神遅滞との境界程度であること、昭和五九年ころからは、福祉作業所で働いており、徐々に社会性を身につけて被告との結婚も病状に好影響を与えたが、いまだ安定した状態とはいえず、昭和六二年ころ、肺の手術をしたため体力が弱くなったことも手伝って、急激な環境・生活の変化、負担の増加に弱いこと、したがって、被告も乙山も、社会的適応能力に欠ける面があり、本件売買契約のような不動産取引についての判断能力が、一般人に比較して相当程度劣っていること、以上の事実が認められる(被告と乙山を、以下あわせて「被告夫婦」ということもある)。右認定に反する証拠はない。
2 《証拠省略》を総合すると、原、被告、戊田及び被告の兄である丁原竹夫(以下「丁原」という)等の親族関係は別紙親族関係図記載のとおりであること、戊田及び丁原は、被告夫婦が前記のとおり精神分裂病であることを当然ながら知っていたこと(後記5に認定するとおり、戊田は被告の保護義務者でもあった。)、被告持分権は、もともと丁原自身が買い受けたい希望であったが、資金能力の点など丁原家側の事情で原告が買主となることに変更され、被告と交渉が続けられたこと、丁原の代理人として、また後には原告の代理人として被告夫婦と交渉した丙川は、昭和六三年五月二一日から平成元年七月二八日の本件契約締結時まで、数回にわたって被告夫婦に会い、直接話をしていること、原告は、昭和五三年三月ころから、丁原宅に下宿し、以来現在に至るまで丁原と一〇年以上も同居しており、その間昭和五八年三月、丁原の長女と婚姻してその娘婿となったこと、以上の事実が認められる。
右事実によれば、原告及び丙川は、遅くとも本件売買契約締結するまでには、被告及び乙山が前記のとおり精神分裂病で入院した経歴があり、社会的適応能力に欠ける面があって、その知的・判断能力が一般人に比較して相当程度劣っていることを充分認識できたものと推認できる。右認定に反する証人丙川春夫及び原告本人の各供述は、甚だ曖昧で具体性に欠け、信用することができず、他にこれを覆すに足りる的確な証拠はない(《証拠省略》によれば、原告自身は被告夫婦と昭和六三年の正月に初めて会い、その後は本件契約締結の際に会ったのみであることが認められるが、この事実は、前記認定の各事実に照らすと、右推認を覆すに足りる事実とはいえない。)。
3 《証拠省略》によれば、本件土地はもと丁原梅夫の所有であったが、同人の死亡により昭和五〇年九月二八日、戊田、丁原及び被告の三人が各三分の一の持分でこれを相続したこと、本件土地面積は約四〇坪であり、内一七坪には第三者の借地権が設定され、残りの二三坪には、丁原や原告が現在居住している丁原所有建物が建設されていること(本件土地利用権限は明確ではない。)、社団法人東京都宅地建物取引業協会作成の東京都地価図によれば本件土地の地価は本件契約当時、坪当たり五〇〇万円程度であったこと、そうすると、右借地部分の底地分を含む本件土地の地価は全体で約一億四〇〇〇万円となり、被告持分権の価格は約四六〇〇万円強となること、本件売買代金一〇〇〇万円は、原告の用意可能な金額として買主である原告側が提示したものであること、以上の事実が認められる。右事実によれば、被告の権利は本件土地の三分の一の持分権に過ぎず、通常は市場性が低いこと(但し、後記4を参照)、相続後の本件土地の公租公課を丁原が一人で支払っていたこと等の諸事情を考慮したとしても、一〇〇〇万円という売買代金は、不当に低廉であるといわざるを得ず、原告側も右金額が本件土地の地価と対比して著しく低額であること充分知っていたと推認することができる。《証拠判断省略》
4 《証拠省略》によれば、本件土地は、近い将来、「井の頭通り」の道路拡張のために全部が土地収用の対象となる予定であること、本件契約の時点で、土地収用が実現すれば相当高額な補償金が支払われることはすでに明らかであったし、原告はこの事実について、昭和六三年ころには認識していたこと、そもそも原告が被告持分権を買受けたのは、近い将来に土地収用が実施され、これによって丁原の持分権分をも併せると相当高額の対価が得られ、それによって他所に丁原夫婦と同居できる不動産を取得しようとの計画の下に、土地収用が実施される前に被告の共有持分を手に入れようとの目的でなされたこと、以上の事実が認められる(原告が被告持分権によって相当の利益を取得できるということは、被告がその利益を取得し損なうことと同義である。また、《証拠省略》によると、戊田とは付き合いがなかったため、同女の持分を買受ける話は当初から全く出ず、被告持分権を売買対象としたということであるが、《証拠省略》によれば、戊田は被告とも長い期間音信不通であったが、昭和六三年ころから再び付き合い始めたに過ぎないことが認められ、被告持分権を売買対象としたのは、単に右の付き合いがあるなしだけで説明できない理由があると強く推測できるのである。)。右認定に反する証拠はない。
ところで、《証拠省略》によれば、丙川は、本件契約交渉の過程で、被告夫婦に対し、井の頭通りの道路拡張のことについて話をしたことが認められるが、《証拠省略》によれば、被告夫婦は、その内容について十分理解する能力がなく、土地収用の意味も正確には理解していなかったし、まして土地が収用されれば、本件売買代金を著しく超える相当高額の補償金が支払われるという認識は有していなかったことが認められる。
また、《証拠省略》によれば、被告は、被告持分権を売却する意思は当初全くなかったが、丙川との売買交渉の過程で、一〇〇〇万円が入手できれば長男の乙田一郎(前夫との子)にマンションを買い与えることができると考えたこと、しかし、被告夫婦は、通常人であれば認識しえたはずの税金(譲渡所得税)の問題についても充分に理解できておらず、右一〇〇〇万円がまるまる手取りになり、これを全額マンション購入資金に利用できると誤解したこと、更に被告夫婦は、本件売買の結果、金銭を取得した場合には、現在受給している生活保護を打ち切られることになり、障害者である被告及び乙山にとって致命的な結果となるという認識も全くなかったこと、以上の事実が認められる。右認定に反する証拠はない。
5 弁論の全趣旨によれば、本件取引を被告及び乙山が正常に行うためには、被告の入院時の保護義務者であって、以前から被告の後見人のような役割を担ってきた被告の姉である戊田の助言が必要であり、仮に、被告が本件契約前に戊田と相談する機会をもっていたならば、本件契約は締結しなかったであろうと推測されるところ、《証拠省略》によれば、原告側は、本件契約当時、被告が戊田とうまくいっていなかったことを知り、被告夫婦が本件契約について戊田と相談する機会を与えないようにして、丙川において、「戊田は(被告持分権売買に)全然関係ない。」とか、「あそこの土地は他人に売れない土地だから売ってくれ。」とか、「半端な土地だから他人には売れない。」とか、「(被告持分権価格は)七〇〇万から一〇〇〇万円の間だ」などと被告に申し向けて言葉巧みに被告持分権買い入れの交渉を行い、結局、戊田の助言なしに本件契約を締結させるように仕向けたこと、以上の事実が認められる。《証拠判断省略》
6 以上を総合すれば、原告は、被告夫婦の本件土地価格、本件土地収用等についての無知・無理解、また、本件売買代金でマンションが充分買えるとの錯誤を奇貨として、これを利用し、また増幅して、本件契約を締結したものであることが認められる。
通常の場合であれば、社会生活において、他人の不知や錯誤を知りつつ、自己の利益のため、これをその者に告げないで取引を行うことは、正常な駆け引きの範囲内のものであれば、社会的に許容されることがあるが、原告及びその代理人である丙川は、前記のとおり被告や乙山が精神分裂病で入院した経歴があり、社会的適応能力に欠ける面があって、その知的・判断能力が一般人に比して相当程度劣っていることを充分認識していたのであるから、このような場合、原告には信義則上、相当な代金につき、被告に告知する義務があり、これをせず、逆に被告持分権の価値が一〇〇〇万円が相当であるなどと事実と掛け離れたことを積極的に申し述べる等の原告側の本件契約に至る交渉行為は、社会的に許容される限度を著しく超えているというべきであり、結局、原告の右行為は民法九六条一項の詐欺に該当するものといわざるを得ない。
7 《証拠省略》によれば、抗弁1(二)の事実が認められる。
三 よって、原告の本訴請求は、その余の点について触れるまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 片野悟好)
<以下省略>